セミリタイアの醍醐味は読書
ここ数年間、ほとんど本を読むことができていなかった。
物心ついてからずっと読書は傍らにあって、単に趣味という以上に人生の拠り所といった存在だったのだけど、それがいつの間にか徐々に、でも確実に遠くに行ってしまった。
子供の頃は物語をただ面白いから読み、学生時代には娯楽としての読書の他に探求心を持って文学に手を出すようになり、更に大人になって実用書の類にも手を伸ばすようになった。
文学については、全てが全てを楽しめるほど分かりやすいものではなく、作者が何を描きたかったのかをうまく掴めず消化できないものも多かった。私は予断なく作品を読むのが好きなのだけど、文学について言えば、その書かれた時代背景、作者の人生、宗教的価値観等を予習しておかなければ理解できないことも多い。
ただ、分からないままに手探りで古今東西の文学作品を読んだ経験から得た教訓といえば、今隣にいて言語や常識をある程度共有していると思って話しているある他人が、実際にはその頭の中では驚くほどバラエティに富んだ価値観を有しており、私にとっては理解の範疇を超えた突拍子もないことを平気で考えているに違いない、ということだ。そのことを理解しながら、それでも表面上はお互いに共通事項があるという幻想を共有しつつ行うのが円滑なコミュニケーションというもので、もしそれが上手くいっているとして、上記のことを忘れずに常に意識していれば、それがどれほど貴重なことであるかをきちんと認識することができる。逆にモンスター〇〇という理解を超えた人々に対しても特段驚かなくなるだろう(理論的には。実際には実生活で出くわせば当然憤るだろうと思う)。更に別の観点から言えば、私にとっての常識の集大成である私自身が、他の誰かにとっては非常識なモンスター〇〇になり得るということも分かっておいた方がよいかもしれない。
三つ子の魂百までというが、今私が好きな本を挙げるとすれば子供の頃に読んでいたような児童文学が思い浮かぶ。いろんなものを読んできたけど結局そこに戻るのだなと最近しみじみ思う。文学のように高尚ではなくもっと分かりやすい「児童文学」は、それでも価値があるから時代を超えて語り継がれているのだろう。私は大人になっても大人向けの版を手に入れてひとつひとつそれらを読み返したし、そこから多くを学んだ。
分かりやすいことしか描かれていないそこには、モンスター〇〇を当然の帰結とするような人間の無限の創造性といったものはなく、むしろ平凡で普遍性のある人間の毎日が描かれている。そこでは人々は一応の規範、善悪を共有し、分かり合える世界で生きている。愛こそが人間にとって必要なものだし幸せの源になるものだと語っている。どちらかといえば予定調和の世界と言っていいだろう。それでも私がそこからたくさんのことを学んだ気がするのは、読書には人一人の限られた人生経験を補完する意味合いもあるからかもしれない。
さて、セミリタイアっぽい生活を始めた今、得た自由時間を使ってまたそれらを読み返したいと思う。既に何度も読んだものだけど、その心地よさを知っているのでやっぱりまた読み返したくなる。もちろんそれ以外のものもたくさん読みたい。理解しづらい文学作品を読みながら人間の多様性の片鱗を感じたり、娯楽作品で手軽に別の人生をバーチャルに楽しんでみたり、参考になりそうな実用書で知識の幅を広げてみたい。
ここ数年本が読めていなかったのは、仕事に時間をとられて読書の時間が確保できなかったという理由以外にも、いざ時間があっても読書以外のことに費やしていたという理由も大きくて、対抗馬としてはやはりHuluとかNetflixとかAmazonプライムとかそういうサブスクリプションの動画サービスの出現は大きい。読書であれば両手がふさがって読書しかできないが、動画サービスであれば他のことをしながら楽しむことができるし、何より読書ほど気力や能動性を必要としないのも利点だ。ただ受け身になっていればよい。
サブクスの方もこれから自由時間を使ってもっと楽しみたい気持ちもあるが、せっかくセミリタイアしたのだから、気力を蓄えてまた読書も再開したい。両方楽しむくらいの時間は得られるだろう。
そう、これこそがセミリタイアの醍醐味ではないか。
読書こそがセミリタイアの醍醐味なのである。