世の中で働く人達を外側から眺める

 セミリタイアっぽい生活を開始した今、日々折に触れて意識してしまうようになったことがある。

 本当に多くの人達が、自分自身の生活時間の多くを仕事に費やしている、ということだ。

 直接人間関係を持っている人(仕事上の付き合いのある人)も、そうではない人(例えばかかりつけのクリニックの医師とか)も、いろんな人達の職業人生というものについて、何となく想像してみることが多くなった。

 私の周りのそういう人達は「生活のために働かなければいけない」のではなく、自己の積極的な選択として自分の時間を仕事に充てているように見える。単なる金銭獲得の手段という訳ではなく、自身の社会的役割を得、遣り甲斐を得、自尊心の拠り所を得ている人達が多い。

 例えばかかりつけのクリニックの医師を想像してみるに、クリニックでの診療業務以外にも情報収集や専門知識の維持向上のための勉強時間等を含めると、おそらく週休1日あるかどうかという頻度で自身の毎日の業務に従事していると思われ、もちろんその分収入も世間の平均よりもかなり多いということは想像に難くない。

 もちろん、収入の高さが遣り甲斐や自尊心の土台にあるとは思うが、それが直接の動機ではないと思われる。お金だけが動機であればむしろ、そこまで稼がなくてもいいから少し休みたいと思うのではないかと想像するからである。いや、そうではない人もいるのかもしれない、休みなんかいらないからどんどんお金を稼ぎたいと思う人もいるかもしれない。

 私自身は、ある程度年収が上がり、それと同時に業務量も増加するにつれて、「そこまでお金を稼ぐよりはもう少し休みたい」と思うようになった。今でもある程度の仕事は続けており、社会的役割も遣り甲斐も自尊心もある程度は仕事(職業)から得ているとは思うが、それでも生活時間の大部分を仕事に充てたいとは思えないのが実際である。仕事以外にやりたいこともたくさんある。だからこそセミリタイアした訳ではあるが。

 なので、セミリタイアする前の私より更に何倍も稼いでいるに違いない人達が、継続して自分の時間のほとんどを仕事に充てているのを見るにつけ、「すごいなあ」と思ったり、自分とは全く違うなと思ったりする。もちろんそこに優劣をつけるつもりはない。ただ、そこまでの社会的使命を負い、数ある選択肢の中で一つのものだけを選択して全力投球するということを、私はしていないのだなと思う。

 そこに金銭以外の意味・意義があるのであれば、私にとっても仕事は何かの意味・意義があり、かつ私自身はまだ気付いていないのだろうかと思ったり。いや、今まで自分にできる精一杯の範囲で働いてきたうえでの結論として今回のセミリタイアがあるのだから、単に個々の選択に過ぎないと思ったり。

 なお、セミリタイアした直接のきっかけは、余暇の活動にもっと多くの時間を割きたいとか本職以外にやりたいことがあったとかそういう能動的なものではなく、心身のストレスが大きく金銭面以外にメリットがないと思える仕事から速やかに離れたい、とにかくしばらくゆっくりしたいという、どちらかと言えば逃避的なものだった。なので、実際にセミリタイアした今、今一つ能動的に時間を遣えずにいる。

 今後どうなるのかは分からないが、仮に自分自身が一定期間の休息を経て充分に癒されたとしたら、その時に私はどうするのだろうか。今趣味として取り組んでいる仕事以外の何かをもっと本格的にやりたいと思うようになるだろうか。あるいは全く新しいことを始めるだろうか。それとも、一周回ってやっぱり自分の人生を充実させるだけの社会的役割や遣り甲斐を得られるものは仕事しかないという結論に至るのだろうか。

 いずれにしても、老後を健康的に過ごそうと思えば何らかの社会的役割を持ち他者との関わりを持つことが重要であるとよく言われる。自分にとって一番自然な社会的役割はどういう形だろうか。

 このセミリタイアがいつまで続くのかは分からないが、ある程度ゆっくりしながら、その辺りの答えも見付けていきたいと思う。いや、考えて見付けるとというより、人生そのものが無意識下での自分自身の持つ価値観に自然と沿った流れになっていくのかもしれないけど。