あなたは「若い」ですか?

 このブログは基本的に自分自身の属性については触れない方針で書いているのだけれど、具体的な年齢は置いておくとして、もし誰かに私自分が若いかどうかと聞かれたら、「若くはない」と答えると思う。

 そして、この若さについて自分自身の中ではどこに分水嶺があったかというと、これははっきりと答えることができる。一般的にこれが若さの指標とされているのかどうかは分からないが、自分にとっては、自分が若さを失った実感として、実年齢でもなく外見の変化でもなく、真っ先にこの心境の変化が思い浮かぶ。

 それは、「死を意識するようになった」ということである。

 死というのはもちろん自分自身の死でもあるし、あるいは周りの人たちの死だったり、全く面識のない人のニュース上の死だったりする。

 若い時にはそれほど死を意識していなかったと思う。もちろん誰かが死んだというニュースは、メディア越しに、または私生活で関わりのある範囲内でも、常に耳にしていた。でもそれはあくまで向こうの世界の出来事だった。

 死について考える時にいつも思い出すのだけど、村上春樹の『ノルウェイの森』でも同じような記述があった。うろ覚えだけど、確か主人公のモノローグで、「自分は今まで、死とは生の対極にあるもので、言い換えれば生きている間は死に捕まることはないと思っていた。しかし今はこう思っている、『死とは生の一部として存在する』と」といった内容だったと思う。

 この一文については、この小説を読んだ後も何度も折に触れて思い出し、その意味を考えることがあった。ある時、同じくこの小説を読んだことのある知人にこの文章の意味がよく分からないと言ったら、何らかの説明をしてくれたのだけど、はっきりとは思い出せないが「生きている以上、死という概念もあるはずである」といった内容だったと思う。
 でも単に死という概念を人間が持っているという話であれば、「死」という語彙が存在する時点で当然にその概念も存在すると思うのだけど、それは主人公の死に対する考え方を変化させる原因となった人生経験の前と後で変わるものなのだろうか。もしかしたら村上春樹は本当にそういう意味で書いたのかもしれないけれど、私は何となくもう少し別の意味があるのではないか、というよりあってほしいなどと思いながら、その後もやはりたまに思い出してはこの一文の意味を考えたりしてきたのである。

 そして、若い時の私は、死に対しての考え方はこの主人公の前者の考え方、「死とは生の対極に位置するものである」と全く同じ考えを持っていた。だからこの前半についてはよく分かる。若者の多くは死についてこういう考え方ではないかと思う。

 しかしそういえば、堀江孝文氏は(彼が何歳の時の発言だったかまでは分からないが)「死が怖い」と言っていた。その時の私自身はまだ若い時代だったので、自分がいつか死ぬという知識はあってもそのことをリアルに意識したこともなく、なので怖いと思ったこともなく、また彼の人柄を考えると意外にも思って印象に残っていた。
 どちらかといえば、死んだ瞬間に意識は失われて、痛みも、そして死んだという事実も自分では認識できなくなるのだから、別にいいんじゃないかと思う。ただ、死の直前に痛みや喪失感等があるのであればそれは怖いかもしれない。
 しかし昔、何かで「死ぬ瞬間に人間の脳内ではベータエンドルフィンが大量に分泌される」と読んだことがあって、ベータエンドルフィンが分泌されるのであれば恍惚感に包まれるのだろうから死ぬということは実際には不快ではなくむしろ気持ちいいのかもしれない、と思ったのだが、その後更に「ベータエンドルフィンは大きな苦痛を感じた際に、それに耐えるために分泌される」とも読んで、「やっぱり死ぬ瞬間は苦痛なのか」と思った覚えがある。
 当たり前だけど、この件に関して経験者の意見を聞くことは不可能だし、今まで死んでいった無数の人はもれなく経験していることなのに実際には誰にも聞くことができない、と考えると、何だか面白いような神秘的なような心持ちになる。

 さて、そうして時を経て死を意識するようになり、代わりに若さを失った私であるが、しかしこれはおそらく人間にとっては通常の加齢に伴う心境の変化の範囲内なのだと思う。私自身が死を意識するようになった直接的なきっかけは分からないが、自分の死を意識するためには若さの象徴である「自分に対する万能感」を失う必要があるから、それを失うにつれて当然の結果としてその認識を受け入れたのだろう。

 ただひとつ言えるのは、「自分もいつ死ぬか分からない」という考え方をするようになったことは、自分自身にとってセミリタイアという決断の大きな一要素であったということである。死がまだ遠い先にあって、人生とは多少の変化はありつつも基本的には現状の延長線上に続いていくものである、という若い頃の考え方のままであったら、多分セミリタイアはできていなかったと思う。若い時であればあくまで「転職」としての判断だったのではないか。

 正直に言えば、セミリタイアを検討している時には、セミリタイア後の人生に対して漠然とした恐怖というか不安はあった。その時に背中を押したのが「いつ死ぬか分からない」という考え方である。もし今余命を宣告されたとしたらこの仕事を継続していたことを後悔するだろうと分かっていたので、では余命宣告を待たずとも、まだ健康なうちにこの仕事は辞めてもっと楽しい生活を送ろう、と思ったのである。

 ちなみに、若さを失うと引き換えに死を意識するようになった今、堀江孝文氏と同じように死に対して恐怖を感じるようになったかと言えば、そうでもない。この辺りの考え方は知識量や人間としての成熟度合によるのではなく、単に個別性なのかもしれない。

 そして村上春樹の一文については、今に至って私が後半の主人公の考え方を理解できるようになったかというと、どうなんだろう、あまり理解できた実感はない。もっと別の何か深淵な意味があってほしいという気持ちがあるので、無意識に理解したくないと思っているのかもしれないし、あるいは今の私の死に対する認識を言語化したとした場合には村上春樹と同じ表現にはならなさそうなので違和感があるということかもしれない。

 でも敢えて今改めて考えてみるとして、今の私のこの心境が「死は生の一部として存在する」というものなんだろうか。いや、やはり自分自身の認識についての表現としては納得感が得られないし、もっと別の意味が存在していてほしい。強いて言えば、「死とは死ぬ瞬間の一瞬を指すのではなく、老いていくことが広義の死である」という感じか・・・いや、やっぱりもっとゆっくりとうだうだと考え続けていこう。楽しいから。