気力低下についての考察

 悪夢について書いた先日の記事のとおり、少し前からまた気力が少し低下していて、一昨日くらいに浮上した。いつもの繰り返しである。繰り返しすぎて、人間というものは一般的にこういうものなのだろうかと思うことすらある。誰しも定期的に気力は低下するが、自立した社会人はいちいちそのことを口にしないだけなのだろうかと。

 気力が低下すると、生活行為全般に対してやる気がなくなり、自己評価が下がって将来に希望が持てなくなり、自己嫌悪で辛くなる。その状態でしばらくもがいていると、ふと何か新しい気付きを得て前向きな気持ちになれる時が来る。この繰り返しである。これが三歩進んで二歩下がっているのであれば、少しずつでも成長していることになるけど、三歩進んでは三歩後退しているだけかもしれない。

 セミリタイアというのも諸刃の剣で、ストレスから解放される一方で、ある程度制約のある規則正しい生活から離れることでみすみす精神状態を不安定にしている側面も明確にあると思う。でもどちらか選ぶとすれば自由な方がいいと思って今に至っている。

 今回、セミリタイアしたといっても、従来携わっていた複数の仕事のうちボリュームの大きかったものを辞め、それ以外のものは変わらず続けている状態である。だから引き続きある程度の収入も得られており、それで生活できている。

 しかし気力が落ちると自分が駄目な人間だと思えてくるので、今回も、今継続できている仕事だっていつかは自分のせいで失ってしまうだろういうマイナス思考に陥った。そもそも先日見た悪夢も、昔の仕事に関する実際の記憶を再現したままの内容で、目が覚めた瞬間、その時の自分のやり方のまずさやその結果への後悔で一杯となっていて、こんな自分は昔から頭が悪かったしこの先も成長するどころか衰えるだけだろうという自己嫌悪にまみれていた。そしてそんな自分は今後もう新しい仕事は決して得られないだろうと。

 冷静に考えれば、今の仕事を失ったらどうしようというのは予期不安の典型で、そんな不安は相手にしないことが肝要である。でも自己評価が低下していれば、その不安は自分自身に対する無価値観の現れなので、無視することが難しい。本当は、将来仕事が失われることが問題なのではなく、自分自身がそれほど駄目な人間であることが問題なのである。それが事実であろうとそうでなかろうと。そしてまた冷静な自分は、それが必ずしも事実ではないことも頭では分かっているのである。でも理屈ではなくもっと深い気持ちの部分で自分を否定している。気力が落ちるとそうなってしまう。

 それでどうするかというと、気持ちに対して思考で対抗することはできないとは分かっているが、それでも自分の使える武器は思考しかないので、とにかく必死でぐるぐると考える。昔はこういう時にはよく本を読んだ。そうやって解決の糸口を探した。自分の感じていることは必ずしも事実ではないこと、またそう感じている自分自身ですら本当の自分ではないと言えること、だからそれらに振り回されないように努めること。若い頃と違い、歳を重ねた分だけそれなりの実績や成功体験も得てきたから、それらも少しは役に立つ。今の自分を信頼して仕事を与えてくれている人達のことも思い出す。その人達の信頼を裏切らないためにも、自分がどんなに駄目な人間であってもせめてできるだけの努力はしようと思う。そう思うくらいから、少しずつ浮上する。 

 今回、今の仕事を失ったらどうしようという不安に苛まれたが、ふとある瞬間に、逆に今の仕事から受けている制約もなくなるのだから、その後はどこにでも行けるし何でもできるのではないかと思いついた。このブログの旅行についての記事にも「仕事があるので一か月以上の旅行は現状難しい」と書いたが、もし今の仕事を失うことになったら、好きなだけ旅行できるし、好きな場所に転居することもできる。そう思ったら気が楽になった。

 これは、そう考えることによって気力が浮上したというより、気力が浮上したからそう思いついたのかもしれない。それくらい、私自身の思惑と関係なく、生理的な何かの働きによる気力の変動に振り回されているように最近は感じている。充実した気持ちで眠りについたのに、次の日起きたら一気に無気力になっていたりして、そういう時は布団の中で、『博士を愛した数式』のあの人のようだ、とよく思う。例によって本の内容はあまり覚えていないけれど、朝起きた時に全てを失っている博士の絶望と、その博士を主人公が戸口から見ている光景が頭に残っている。

 数年前のある時、気力が落ちていよいよこれはどうにかしなければいけないと思い、『いやな気分よさようなら』という本を買った。タイトルだけは前から知っていたのだが、その時の自分が求めているものがタイトルそのままだったからである。更に同じ著者の書いたワークブックのようなものも購入した。とにかく集中的に取り組んで、どうにかしたいと思ったのだ。結局やらなかったのだけど。

  また今回、認知療法においてよくある、ノートの真ん中に線を引いて、左側に自分自身の考え(マイナス思考)を書き、その右側に同じ内容を前向きに言い換えたものを書いたりして自分の持つ認知の歪みを自覚して修正する、あれをやってみようかと思った。今回であれば、左側に「いつか仕事を失ってしまう」、右側に「今の仕事が終わったら新しいことができる」という感じだろうか(これで正しいのかどうかは分からないが)。そうした地道な積み重ねがないと変わらないのではないかと思った。ただ、ノートを手に取るところまではいったのだが、結局実行はしていない。いざ気力が浮上してしまえば、すぐに別のことに頭がいくからである。

 そして上で述べた『いやな気分よさようなら』とそのワークブック、これらの本も、買ったはいいものの今に至るまで結局ページを開くことはなかった。何故なら、当時ネットで注文して、いざ手元に届いた数日後には勝手に気力が復活していたからだ。今回も、今度こそそのワークブックで実践してみたいと思い出したが、その後すぐに浮上してしまってやらずじまいである。

 それくらい、気力は勝手に落ちたり上がったりする。何とかしようとその都度ぐるぐる考えてはいるけど、多分その思考自体が気力によって影響を受けている。ストレスとか認知の歪みとかそういうものではなく、もう少し純粋に肉体的な作用の結果だろうと今は思い始めている。

 だから自分がすべきことは、おそらく規則正しい生活とか運動とか他者との会話とか、直接的ではなく間接的で、かつ精神的ではなく身体的な活動なのだと思う。そして、いちいち気力が上がったとか下がったとか大騒ぎせず、振り回されることなく、森田療法のように淡々とすべきことをすることも大事なのだろう。でもセミリタイアすると「すべきこと」の総量が減ってしまうのだけど。

 いずれにせよ、未だに気力が上下するとしても、その振り幅は昔より小さくなっているようにも思うし、この先も歳を取ることで良い意味での諦念が出て更に状況は改善するかもしれない。

 今はまた気力が浮上しているので、こうやって将来に対しても希望を持つことができている。

 このブログも、気力に関する記事は文字にするととても暗い内容になってしまうけれど、書くことで頭の中が整理されて良いと思う。気力が落ちている時には場当たり的に対応策を考え散らかしているけれど、今回この記事を書くことで、認知療法は自分にとって優先順位が低いと考えていることが分かった。今後に生かしたい。