「やりたくないことはやらない」だけでは

 「やりたくないことはやらない」は、日々の生活において意思決定の大原則のひとつだと思うけど、その言葉だけを額面どおりに唱えていると判断を誤りそうだな、と先日ぼんやりと考えた。

 私は、たまにやりたくないことをする。自分の意志でする訳だから大きな意味では「やりたいこと」に入っているのかもしれないけど、単にやりたいかやりたくないかでいえば、やりたくない方に入る。

 それは、家でゆっくりしたいのにわざわざ出掛けてジムで重い棒を担いでしゃがんだり立ち上がったりすることでもあるし、知らない人と話すのは得意じゃないのに交流会の類に参加することでもあるし、趣味を楽しみたいのに目の前の仕事関係の参考書に目を通したりすることでもあるし、まあそんなことだ。

 マシュマロテストと同じだ。今我慢することで将来好ましい結果が待っているのであれば、短期的にはやりたくないこともやるという選択は充分にあり得る。スクワットは嫌いだけど健康のためには必要だからやるし、交流会は苦手だけど有益な出会いを得た経験が何度もあるから行くし、仕事関係の知識を深めることで能力を高め、取引先の役に立つことができ、いくらかの報酬にもつながるから勉強する。

 で、そういう類のものではなく、本当にやめた方がいいような「やりたくないこと」というのはどういうものなのか考えてみたけど、あまり思いつかなかった。

 これは私だけではなくて、基本的にそもそも人はやりたくないことはやらないよな、と思う。当たり前だけど。

 それで、セミリタイアっぽいことをしたきっかけを考えてみた。

 自営業である私のセミリタイアは、具体的に言うと当時抱えていた仕事のうちのひとつを辞めたことを指すが、その仕事を始めた当初はもちろん自分が「やりたいこと」をやっていた。しかし時間の経過とともにそれが徐々に変質していった。業務内容はマンネリ化し、人間関係は悪化し、心身の健康を損ない、報酬は自分にとっては必須ではない上にデメリットの大きさに見合わないと思えたので辞めた。

 辞めると決めれば早かったけど、自分はこれをやりたくないのだ、という結論に達するまでは少し時間がかかった気がする。

 仕事というのは「業務内容(付随する遣り甲斐)」、「金銭的報酬」「人間関係」「社会的地位、ステイタス、役割」などいくつかの要素が含まれるものだから、単純にやりたいかやりたくないかで考えることが難しい。業務内容は好きだけど人間関係が苦痛だったり、業務内容は嫌いだけど金銭的報酬を必要としていたりする。業務内容も人間関係も嫌いだしお金もいらないけど、ただ社会的役割を持っていたい(無職にカテゴライズされるのが怖い)、ということもあり得る。ちなみにこれは「結婚/離婚」の場合にも似たものがあると思っている。

 それに仕事(あるいは結婚生活)には「成長」という要素も大きく関わっていて、「ここを乗り越えれば成長できる」という考え方もあるし、実際に乗り越える努力をすべき時もある気もする。逆に乗り越える必要はないからさっさと辞めた方が良い時もある。

 それを見極めるのが難しい、と言いたいところではあるが、しかし思うにこれは結果論的な話というか、人生というものは既成事実の上に絶え間なく次々と新しい要素が積みあがって形成されていくので、別の道を選んでいた場合の生活を想像して今の生活と比較することがそもそも困難というか、もし別の道を選んでいれば今の生活で新しく得た何かは存在していなかった可能性がある。故に決定的な選択誤りというものもなかなか存在しにくい。

 そう考えれば、割とどちらの選択肢を取っても前さえ向いていれば最終的には幸せになれるものだと思う。ただし自分自身が意識して前向きに思考するという努力は必要で、後悔してしまえばそこに「決定的な選択誤り」の存在を自分自身で創り出すことになる。

 私自身もセミリタイア前は思考停止している間に少し体調を崩してしまったけれど、世の中には合わない仕事や結婚生活で同じように病んでしまう人がたくさんいる。この場合にはその状況にメリットとデメリットが複雑に絡み合って存在しているから、単に「やりたくないことはやらない」という言葉だけでは解決しないことも多いだろうなと思う。

 業務内容や金銭的報酬、社会的役割に関して言えば、それを得る代替的手段が存在しないとは考えにくい。ただ全く同じものは難しいだろうし、そこまで努力を積み上げてきた時間が長ければ長いほど捨て去るにも勇気がいる。結婚相手であればどうだろう。「結婚相手」は代わりがいるだろうけど「この人」はこの人しかいない。更に、「この人」自身には不満はないけどこの人の家族との関係が非常に煩わしい、という場合などはより一層選択が難しいのかもしれない。そこに「成長」の要素を絡めてしまえば、もはや何が正解か分からなくなっても仕方がない。

 そういうひとつひとつの要素を冷静に検討していくのもいいだろうし、逆に(考えても答えが出なさそうなら)何も考えずに衝動的に決めてしまってもいいと思う。あるいはただ流れに身を任せて一切の自発的意思決定を行わないという方法もある。

 人生とか幸せというものにはもともと正解がないから、こういう問題への対処方法にも正解はなくて、常に自分自身を探りながらその場その場の選択を繰り返すしかできないのかもしれない。自分自身の価値観と思いながら実は世間や周りの人間の価値観を投影したものでないか。あるいは自分自身は変化していっているのに、判断基準が一年前の自分自身の価値観のままではないか。

 ただ、命とか健康を大切にすることは限りなく正解に近い選択肢だと思う。というよりそこに危険が及べば普通はそれは「やりたくないこと」に分類されるだろう。でも抑鬱状態に入って正常な判断ができなくなっていることもある(その時点で既に健康を損なっているが)ので、そういう意味でもやはり「これさえ覚えておけば間違えない」みたいな魔法の呪文は存在しないのだろう。

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