親に叩かれたことはある、驚くに値しない

 世代的なものもあると思うが、私は子供の頃にたまに親に叩かれていた。

 今でも覚えているワンシーンがあって、今朝も起きぬけにふとそのことを思い出した。叩かれたこと自体は何度もあるが、このことだけをずっと何十年も覚えているのだから、やはり自分にとっては強烈な体験だったのかもしれない。

 その時、私は友達と一緒に小学校から帰っていた。

 その日は本当は習い事の日だったのだけど、私自身はその習い事に全く興味がなくて嫌いだった。毎回毎回行きたくなくて、その日も、忘れたふりをして学校で遅くまで(習い事の時間を過ぎるまで)友達と遊んでから帰っていた。そして道中、たまたま父親に会った。

 「習い事は」と聞かれたので、私は「忘れてた」と嘘を吐いた。

 その途端、ばしん、と思い切り頬を叩かれた。道端でだ。たまたま通りがかった女の人が思わず口を押えてこちらを見ていたのを今でも覚えている。頬が一瞬で熱くなったのを覚えている。耳がきーんとなったのを覚えている。他のことはあまり覚えていない。その後父親がどうしたのか全く覚えていない。

 気まずかったのか、友達はその後早々に別の道から帰ってしまい、私は泣きそうになりながら一人で家に帰った。

(なお、これは別に父親を責めるために書いている訳ではなくて、何となくこの機会に吐き出しておこうと思って書いているだけである。)

 昔は体罰が今よりはありふれていたと思う。その時代ゆえの言動を今の価値観で評価しても仕方がない。ただ、私には私の子供時代の実際の世情や価値観を大人として(=客観的に)見た経験がないので、実際のところどういう行動がどの程度受け入れられたり非難されたりするものだったのか、その辺がよく分からない。当時においても、通りすがりの女性が思わず眉を顰める程度には父親の行為は非難されるものだったのかもしれないとも思う。大の大人が小学生をそれなりの力で叩くのだから、時代は違えどやはり理屈抜きに不快に思える行為だったのだろうか。

 それから、当時は今ほど子供の個性や意見を尊重する風潮もなかった。
 と私は思っているのだが、これに関しては時代的要素もあれば、単に家庭や親の人間性の違いに過ぎない要素もあるのかもしれない。少なくとも、私自身は尊重してもらったことはあまりない。

 上で述べた習い事とは具体的にはピアノだったのだけど、私はピアノをやりたいと思ったこともなければ習いたいと言ったこともなかった。親の何らかの判断で、ある日突然教室に連れていかれた。教室に行って終わりではなく本当なら毎日の自宅練習が必要なのだけど、嫌いなのだからやる訳がない。

 こういう子供時代を通じて(もちろんこのことだけではなく他の様々な要因や親の態度の含めて)、私は、自分自身は駄目な人間だという自己認識を持つに至った。要するに自己評価が低くなった。

 ところが、ある程度成長し、自立し、大人になって自分自身の行動について自己決定の機会を獲得していくにつれて、実は私と言う人間はむしろ、こうと決めた目標に対しては人並み以上にストイックな態度で努力して達成するまで継続する質である、ということが分かってきた。

 そして改めて上のエピソードを客観的に考察してみた時、子供だった私の行動は実は理にかなっているものだったのだということも分かった。

 習い事をさぼることは良くないことだと当時は自分自身が思っていたが、しかし大人になった今こそ心の底から思うが、やりたくないことをやるなんて大人でも難しい。しかも始めるかどうかの意思決定すら自分で行ったものではない。やめたいという意思表示も受け入れてもらえない。ただ自分の意見を持てず親の求めるように行動するという一択しか与えられていない。であれば、当時の私にできることは唯一、逃げることだけだっただろう。私は子供ながらに、自分にできる方法で苦痛から逃れようとしていた。
 せめて自分がやりたくて始めたことなら、「一度決めたのならきちんと継続しなさい」という躾には意味があると言えるし、逆に言えば、自己決定していない事柄に対しては負うべき責任もない、と今なら思えるのだが、もちろん子供にそんな割り切り方はできない。当時の両親はその態度から私を「だらしなくて決められたこともちゃんとできない子供」と評価してそのように私を扱った。だから子供だった私もそれに倣って自分自身を評価した。そうやって私の自己評価は低いものになった。

 そして子供の頃に形成された自己評価は、多少は(表面上は)成長後の様々な成功体験によって改善することができても、根本から高めることはとても難しいように思う。

 しかし私ももういい大人になったし、私の育った家庭も多少の問題はあったにせよ一般的にはごく普通の家庭だったので(恵まれていると言える要素もたくさんあった)、私自身もある程度まっとうな人間になっていると言ってよいと思っている。子供時代をトラウマのようにとらえてはいない。自分の持つ良くない性質を親子関係のせいにしてもいない(アダルトチルドレンについての本を何冊か読んだこともあったが、何となく他責的な態度になってしまう気がしたので気にしないことにした)。親だって単なる未熟な一人の人間だったのだと、自分が当時の親の年齢になって充分に理解できている。

 両親と私は、結局は一対一の個人として相性が良くなかったのだなと思う。多分、かわいい盛りと言われる幼少期を終えた後、生意気と言われる年頃だった十数年間、率直に言って親は私のことが嫌いだっただろう。そしてこれは想像だけど、やっぱり一人の人間として、親として、そこに少なからず葛藤を抱いていたのだろうなとも、今は思う。

 そういう訳で、世間ではたまに体罰の是非について(是である訳はないのだが)語られたりしているけれど、問題はそれが一種の暴力であること、力の強い大人から力の弱い子供へと行われるものであることというだけでなく、子供自身の意思を無視しようという態度の帰結する先であることも重要なのだろう。身体的痛みと同じかそれ以上に、本人にとって苦痛だと思う。

 それからもちろん、それらが多くの場合に躾や教育を目的とする行為ではなく、単に大人側の感情に任せた行為であるという要素も無視できない。

 上に書いた父親に叩かれた記憶の他に、ここには書かないが母親に叩かれた記憶もひとつ鮮明に頭に残っている。どちらの場合も、その日から今に至るまで一貫して、私は両親が単に私に対してむかついたから叩いたのだと解釈している。そしておそらくそれが事実である。

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