あの時もし別の道を選んでいたら

 子供の頃は、どちらかといえば学校の勉強は得意な方だった。

 しかし、と今しみじみ思う。私は勉強の目的や方法をきちんと分かっていなかった。いや、おそらく当時の多くの子供は分かっていなかったのではないかと思う。もっと正確に言えば、私の通っていた庶民向けの学校では生徒もその保護者もそこまで分かっていなかった。いわゆる進学校においては別だったかもしれない。私の思う勉強の目的や方法を既に知っている親を持つ子供だったら、適切に導いてもらえただろうし、そのための環境を与えてもらえただろうから。

 自分自身の過去を後悔はしていない(むしろ満足している)が、それでも、別の道があったのだろうと思うことがある。そしてその道は、その当時の自分自身の視野の中にはなかったし、多分、私の両親の視野の中にもなかった。だから仮にどこかに存在していたとしても、実際に選択することは不可能であった。

 今、私は自分の能力は高くないと思うことが多い。子供の頃は成績が割と良くて自分は頭が良い方だと思っていたし、社会人になってからも周りから有能だと評価してもらうことが多かったのだけど、歳を取るにつれて、大したことはないなと思うことが多くなってきた。これは、歳を重ねて自分自身を客観的に見ることができるようになってきたという要素も当然含まれるだろうが、ここで述べる真意はそれではない。

 もしかしたら、自分はもっと適切な方法で学ぶことによってもっと能力を向上させることができたのではないか、ということである。

 通う学校もそうだし、専門分野の選択もそうだし、キャリアパスの設定もそうである。それぞれを決定する時期において、私自身は両親やその他の年配者からのアドバイスをほぼ受けずに自分で決めてきた。ということは自分の視野の中にあるものしか選択肢として持っていなかった。そう、一度だけ母親に「私立の中学校に行くか」と聞かれたことがあるが、その時の私には私立中学の意義なんて何も分からなくて、ただ今の友達と別れなければいけないというデメリットしか見えなかったから、即答で断った。

 今、親の経済格差と子供の学力(大学進学率とか就職後の年収)との関係がよく言われているが、その現象について、私は自分自身の過去から上のように理解する。私は両親に充分な教育の機会を与えてもらえたが、一方で私の両親はそこまで真の教養であるとか、キャリア形成を含む将来設計に対して意識的ではなかったと思う。

 子供の頃から本が好きで、本については欲しいだけ買い与えてもらえたし、大学進学までの学費・生活費は全て負担してくれた。読書の習慣を持つことは私の基礎学力の向上にこの上なく役立ったし、この点については両親も意識していたと思う。ただし、幼少の頃を別にすれば、欲しいという本を買ってはくれたが、これは読んでおきなさいという助言はなかった。また、大学進学が多くの場合有利であることも当然意識していたから私を行かせてくれたのだと思うが、どの大学に行って何を学ぶか、というよりその前にそもそも「何かを学ぶ」とは何か、どのように学ぶのか。その辺りの助言もやはりなかった。

 上の記述は非常に不遜なものだと思う。もちろん私は、両親の与えてくれたものについて不満は全くない。そもそも私はそこで何かを不満に思うほどの広い見識はなかった。欲しいといったら与えてもらえたのでそれで充分であった。非常にありがたいことだったし、世間的にも恵まれている方だったと充分に分かっている。また別の面からみれば、私の自発的な選択をそのまま肯定するということこそが両親なりの最善の導き方であったのだろうとも思う。逆に言えば、親が良かれと思って助言を与えたとしたって、子供自身が同意しなければその選択肢は選ばれないか、あるいは無理やり選ばされたものとして不満を覚えることになるだろう。

 だから、そこには別の選択肢があったように見えて実際にはなかったと分かってはいるのだけど、ただ、パラレルワールドの自分を想像するように考えることがある。もし私が、あらかじめもっと意識的に何らかの目標を設定し、違った教育を受けることによって違った方法によって真剣に何かを学んでいたら、どうなっていたかな、と。そして、もしそうであれば、今こうやってセミリタイアはしていなかったのかな、と。

 それでも私は、あの時私立中学に行かなかったことで、あるいは自分自身が選択した大学に進学したことで得られた多くの出会いを大切に思うし、人生の先を充分に見通せてはいなくても、その時々の状況に応じて行ってきた課題解決や目標達成の為の努力を誇りに思っている。その結果としての今現在についても満足している。そしておそらく、現状に満足するかどうかも自分自身の選択である。だから、満足しないことも可能なのだけど、実感として満足しているし、自分自身の幸せのためにも満足する方を選択するのである。

 たまに自分の選択を不安に思うようなことがあったら、古今東西、過去から現在までの様々な国や文化の様々な人について思いを馳せる。そうすると、人生には正解も優劣もないということを思い出すことができる。もう少し卑小な話をすれば、年老いて、あるいは若くして亡くなった多くの人達のことを考える。人はいつ死ぬか分からないし、私もいつ死ぬか分からない。だから何が正解なのかなんて考える必要もなく、今の自分が一番幸せになることだけを考えて選択をすることが一番重要なのだと思う。一か月前の私が自分のためにセミリタイアを選択したのだったら、それが最善の選択だった。何かの呪縛のせいで未だにたまに不安になることがあるから、その度にそう自分に言い聞かせている。

 ということは忘れないようにしながら、それでも、今の自分に満足したうえで、まだもう少し何かを学んでみたいな、とは思っている。死ぬまで何かを学び続けていこう。