文章を書く時に思うこと

 昨日書いた記事は、自分では今一つだと思った。

 文章を書く時、内容がきちんと定まっていないままに書くと昨日のようなものになる。本当に言いたかった内容ではないのに形だけ整えてしまい、リズムだけを考えて特に必要のない文章をむやみに書き足していってしまう。昨日の場合、本当に書きたかったものとは別の内容になってしまったという意味ではなくて、本当はそもそも特に書きたいこともないのに無理やりひねり出したという形だ。結論も何もない。

 今現在これを書きながらでもそうなりかけているので、やはり事前に何についてどのような内容を書き結論をどのように導くかを先に考えておかなければいけないと思う。行き当たりばったりでは早々に行き詰まり、上滑りしたものをわざわざ書いて保存しておくことになってしまう。

 ところで、文章を書くときに気を付けているのは、自分が充分に把握していない語彙を使用しないことと、文法の正しさに細心の注意を払うことだ。この二点に気をつけておけば、ある程度の説得力を持った文章が書けると思っている。それから、つい大げさになりがちな表現を軽々しく採用せずに地に足の着いた文章を書くよう心掛けるとか、同様の表現を反復して使わずに同じ内容を別の言い方で表してみるとか(これには語彙力が必要になるのでなかなか難しいのだが)、同音異義の漢字の使い分けに充分配慮するとか、あとは仮想の読み手に対して上からものを言うのではなくてあくまで個人の所感として述べるに留めるとか、割と細かなことを気にしながら文章を書く。これはこのブログに限らず、仕事や友人とのメールやその他の文章全般を書く時に自分なりに留意していることでもある。

 逆に言うと、世間に溢れている無数の文章を読む際に、上の留意点を意識しながら読んでいるということでもある。反面教師に山ほど出逢う。そういうときに居心地の悪い思いがする。だから自分は気を付けようと思う。

 語彙に関しては、いくら自分なりに努力しても所詮昔の文豪には敵わないと思っている。三島由紀夫の語彙の豊かさについては、いったいどうやったらこれほどの言葉を習得して使い分けられるのだろうかと思った。それはおそらく日本語の文章を読むだけではなく漢文とか外国語の文章、それらの翻訳などもたくさん読むことが必要だったのだろう。昔の人は教養が豊かだったから、その中で自然と身に付いていったのだと思う。

 じゃあと背伸びして語彙量だけ真似しても碌なことにならないから、むしろきちんと身の程を知って、少なくてもいいから自分が正確に遣うことができる言葉だけを遣って文章を書くのが良いと思う。知っている語彙の範囲と遣うことができる語彙の範囲はまた異なるから、相当限られた表現しかできない。大体の思考は文章として形成されると同時に行われるから、自分の文章の幅が自分の思考の幅となるのかもしれない。特に昨日のような内容の定まらない文章を書いてしまった場合には、思ってもいない内容がまるで自分の思考がそうであったかのように形にだけ残るので、偽物を見たような気分で読み返すことになる。

 逆に何らかの感情について文章で表そうと思った時には、その感情の豊かさに比して圧倒的に不足する語彙力に限界を覚えてしまうことが多い。そういう場合、とにかく頭をひねって辞書を引いてネットで検索して、よりふさわしい表現がないかどうかを模索する。それらしいものに行き当たったとき、それが自分の知っている語彙の範囲に入っていれば誤用ではないかどうかが判断できるし、もしその表現が最善とまではいかなくてもなかなか的を射た意味を表すものであったとしたら、それは次からは自分のレパートリーとして遣うことができる語彙の範囲に入ることになる。

 昔英会話を習っていた時にも教師に同じようなことを言われた。君の中にはsleeping vocabularyがたくさんある、つまり聴けば意味が分かるけど自分で遣うことのできない言葉が頭の中にはたくさんあるはずだと。それらの語彙を多くのシチュエーションを経験しながらその場に適切なものを選んでひとつひとつ遣えるようになっていくことが大事だと。そのためにたくさん話しなさいと。

 日本語であっても同じようにそうやって少しずつ語彙を増やしていくしかない。手持ちの語彙がある程度多ければ新たな語彙を探求する前に手持ちのものでやりくりするだろうから、大人になったらあまり語彙が増えることはないかもしれない。できればもっと若くて吸収力があり、かつ表現の難しいような生き生きとした感情を生活の中で何度も味わうことのできるうちに語彙の幅を増やしておくのが良いかもしれない。

 まあいずれにせよ自分の人生経験以上のものを手に入れることはできない。手に入れた少数のもので満足してそれらを大切にするのも必要なことだと思う。