今の私はものすごく狭い世界で生きている
先日、友人夫婦と数年ぶりに会い、一緒にご飯を食べた。
奥さんの方とは幼稚園が一緒だった縁だから、途中でブランクはあれど年齢マイナス3年くらいの長きにわたる付き合いだ。今は別の場所に住んでいてコロナ以前からもう何年も会っていなかったから、今回会ったのは5年以上ぶりだった。
お互いに近況を話して、「太ったわー」「でも見た目では分からないよ」「ほんとに?」と言う会話を双方向で交わした。
二人は一緒に事業を営んでいて、今まではずっとそれなりに順調だったが、例にもれずコロナで少なからぬ影響を受けた。しかしその機会に別の分野に手を広げ、それが成功してそこからまた事業は違う方向に広がっていっているらしい。
「一時期は一日中仕事のことばかり考えてて、でも自分でこのままではいけないと思って少し息抜きするようにしたの」と彼女は言った。「コロナ前にやっていた業務内容には少し飽きてきていて、あまりやる気も出なかったから、コロナは新しいことをするいい機会だったかも」とも言っていた。
私自身は、自分のセミリタイアの話はしなかった。
聞かれたら言っただろうけど、特にそちらの方向に話が進まなかったし、セミリタイア後も続けている仕事が私の本業だと二人は思っているので、「最近は仕事どう?」といった話をする分にはセミリタイアに触れなくても話が通じたからだ。
セミリタイアに引け目を感じていたのかどうかは分からないが、とりあえず話してもつまらないだろうとは思った。ただ、忙しすぎたので仕事を減らして今現在の業務量はそれほど多くないことは伝えた。「今の私はものすごく狭い世界で生きている」と言うと、二人は笑っていた。
私はもともとインドアで社交性に乏しいのでコロナ自粛が全く苦ではなかったのだけど、それでもこうやって普段は会わない人と会い、遠く離れた場所で全然違う生活をしていた話を聞くと、やはり自分自身の世界はかなり狭く閉じていたのだ、と改めて認識するに至った。それは半分は意図してやったことで、半分は状況からそうなったことだ。
セミリタイアした頃から、交友関係は意図的に収縮させていた。そしてコロナがそれに拍車をかけた。
今の私の世界はとても狭い。これくらいが私の落ち着ける規模なのだろう。
旦那さんの方が、「この前温泉に行った時に、85歳くらいの人に話し掛けられて」という話をしてくれた。
「すごく頭もしっかりしてる人で話も面白かったのだけど、その人が『今でも一日に二人は少し緊張するような相手と会話をするようにしている』と言っていたことが印象に残ってる。やっぱりその歳でも元気でいるのにそういうの必要なんだろうなって」
そのご老人が彼に話し掛けたのもその一環だったのかもしれない。確かに知らない人に話し掛けるというのは緊張感があることだ。やらない人も多いだろうし、実際に私だったらやらない。でも脳を若々しく保つのには有効なのだろう。ストレスは一律に排除すべきものではなく、適度なストレスはむしろ脳の活性化に有効なのだと何かで読んだことがある。
私自身は一日中誰とも会話しない日も珍しくないし、それが全く苦痛ではないのだけど、これを続けていたら脳は早く衰えてしまうのだろうなとは思っている。この場合の会話というのはSNS上での遣り取りを含めてもいいのだろうか、と少しだけ考えたが、まあないよりはましかもしれないけど、やはり脳の活性化という観点から見れば生身の会話には遠く及ばないだろう。でもSNSのせいで一日誰とも話していないということを認識しづらくはなっている。そして私が意識的にあるいは無意識的にそういう生活を選ぶのだとしたら、それも含めて私の寿命なのかもしれないとも思う。
セミリタイアを相手に伝えなかったのは、やはりそこに引け目があったのかもしれない、と今この記事を書きながら思い返してみた。
ただ、その考え方はあまり良くないとも思ったので、もう少し自分で整理してみたところ、それはあくまで『他人に話す価値のあることではない』という意味であって、セミリタイアそのものについての引け目とは違うような気もした。何故なら、『他人に理解されなくても自分が幸せであればいい』というのは紛れもない自分の本心だからだ。
でもやはりあまりちゃんと働いていないことについての自分でも解決できない罪悪感は依然としてあるようにも思うけど、じゃあまたフルタイムで働くかと考えれば絶対にそんなことはしたくないので、何度考えても今の自分はこれでいいのだと思う。変な罪悪感がいつまでも消えないだけだ。(これも、一時期はどうにかしたいと思っていたけれど、最近はもう持って生まれた性格なのだろうと思い始めている。)
「今の私はものすごく狭い世界で生きている」けれど、それをどうにかしようとは別に思わない。
でもたまにこうやって日常とは違う交流を持つのは良いかもしれないと思った。実際に二人との会話は楽しかったし、何となく視界が開けてはっとするような感覚があった。
これからコロナ禍が徐々に終息していけば、自ずと私自身の世界ももう少しは開いていくのだろうか。無理のない形であれば、それは楽しいことだと思う。意識して緊張感のある相手と会話するまでの向上心はとても持てないけれど、たまに何か新鮮なものに触れて、自分自身の閉じた世界の向こう側に目を向けるのは必要かもしれない。
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