年老いてから今を振り返るとしたら

 あの時に会った100歳近い老女のことをたまに思い出す。

 その日、私は仕事帰りで、習っていた英会話のレッスン前の空き時間にファーストフード店で勉強していた。もう何年も前の話だ。

 私は窓側を背にして座っていたのだけど、私の斜め前の席には、ものすごく歳を取った女性が壁を背にして座っていた。

 お年寄りと言っても80代くらいの方なら特に気に留めることもないけれど、その人は思わずはっとするようなお歳のように見えたから、少なくとも90代、もしかしたら100歳前後だったのかもしれない。あるいは何らかの事情で外見が老けて見えるだけで80代だったのかもしれないけど、とにかく、あっと思うようなお年寄りの方だった。

 とは言え、お体も認知機能の方もいたってお元気なように見えた。何しろファーストフード店を利用するくらいだ。勝手な想像だけど、そのくらいの年齢になれば、もはや何が体に良いかなんて考えないのだろうなと思う。節制したって仕方ないし、むしろ体に悪くても食べたいものを食べるメリットの方がどんどん大きくなるのだろう。

 その女性が、ふと小銭を何枚か床に落とした。

 ほとんどの小銭はその人自身が回収していたが、一枚だけ長い距離を転がったものがあって、それは私の場所からは見えたけれど、その女性からは死角となっているようだった。回収し終えたと判断した女性は席に戻った。私は立ち上がって、その小銭を拾って女性のところに持っていった。女性は少しだけ驚いた後、私に笑いかけて、お礼を言ってくれた。

 それから私は席に戻って再びテキストに目を落とした。その女性もそのまま食事していたみたいだったが、しばらくすると店を出るために席を立った。

 そして、その女性は再び注文カウンターで何かのやり取りをした後、私の方に来て、アップルパイを差し出した。

「これ、良かったら貰って」

 私は咄嗟に遠慮する言葉を口にしかけたが、それを見越したその女性は「手伝って」と言った。買い過ぎて食べきれないから、手伝って、というように。

 でももちろん、その女性は私のためにそれを注文してくれたに違いなかった。その気持ちが分かったので、私は素直にお礼を言って受け取った。

 その女性が去った後、私は何故か泣きそうになって、勉強するふりをして涙をこらえていた。彼女の年齢は、それだけで何か圧倒するものを私の中に残した。

 別に、その女性のしてくれたことがものすごく重大だった訳じゃない。逆に私のしたこともほんの小さなことだ。それでも私のちょっとした厚意は、その女性にとっては何らかの価値のあることだったのだろうかと思って、それがとても切なかった。

 100歳近くまで生きていたら、もし結婚していたとしても旦那さんはおそらく亡くなっているだろうし、友達だってほとんど生きていないと思う。ひょっとしたらお子さんだって逆縁の可能性もある。そうやって、多分長生きすればするほど少しずつ独りになっていく。そんな中で、ふとした拍子に少しだけ交わした言葉は、もしかしたらその女性にとっては、わざわざお礼をしたくなる程度には嬉しくなるものだったのかもしれない。

 それでもその女性には、孤独で不幸そうな印象はなかった。穏やかに、あー私にはいつお迎えがくるのかねー、なんて考えていそうな感じだった。私の勝手な想像だけど。多分もうそれほど生に執着もないし、といって頭も体もまだ充分に元気で、その日その日をただ暮らして、ハンバーガーの濃い味付けを楽しんで、お金だって遣わずに貯めておいたって仕方ないし小銭を拾ってくれた若い娘さんにお礼でも、なんて思ったのかもしれない。

 その時の私はまだ若い時代だったけど、それでもその女性のことはずっと頭に残っていた。そして今、セミリタイアっぽくなって自分のライフプランなんて作成する時に、たまにあの女性のことを思い出す。私のマネープランは一応100歳まで生きると仮定して作成してあるけれど、それは単に保守的に作っているだけで、実際にはそんなに長生きするとは思っていない。したいのかどうかも分からない。

 でももし本当に100歳まで生きるのなら、あの女性のようになれるのならそれはむしろこの上なく幸せな方で、現実的には頭か体のどちらか(あるいはどちらも)にがたがきて、早く死にたいと願いながら日々を過ごしているか、もはや何も分からなくなっているのかもしれない。

 いずれにしても、今は何となくある程度のことはやり終えた感じでセミリタイアなんてしているけど、年月だけで考えればまだ半分にも来ていなくて、今まで生きてきたのと同じかそれ以上の長さをここから更に生きることになる。健康寿命はもう少し短いだろうけど、それでもやっぱりまだまだかなり長い時間がある。

 もし運良くあの女性のような年齢まで生き長らえたとしたら、振り返ってまあまあ良かったかな、と思えるような人生を、今の私は創っているだろうか。そう考えると、今のこの楽なだけの「セミリタイヤっぽい生活」は何かが足りないような気もしている。セミリタイア前の仕事を辞めたことを後悔することだけは100%ないと思うけど、それに代わる何かを見つけて、多少のストレスがあってもいいから、何かに精一杯の力を注ぐのがいいのかもしれない。それが仕事なのか何か別のことなのかわからないけど。

 そしてこれから先、私は不可避的に少しずつ人間関係を失っていく。家族、親戚、そして同年代の友人だって誰かは私より先に亡くなるかもしれない。それなら自分が先に死ぬ方がいいような気もするけど、でもいざそうなったら「何で私だけ」なんて醜い感情を抱くのだろうか。そう考えるとやっぱりあまり早く死ぬのは怖い気もするし、でもライフプランを立てていると長生きしすぎない方が楽なようにも思えてしまう。でも長さじゃなくて充実度の問題だろうか。どちらにせよ、失った時に後悔しないように今ある縁を大切にしないといけないな、と思う。

 あの女性のまとっていた穏やかさの裏側にあったものを、その人生を想像してみると、そこから何かを学ぶ必要があるように思えてくる。本当に同じことを実感しようとすれば、それは同じくらいの年月を生き抜くことでしか得られないのかもしれないけど、それでも若輩者なりに多少なりと何かを汲み取ろうとすることは無駄ではないはずだ。

 あの一期一会によって感じた何か(それが他人の人生に対する自分の勝手な想像に過ぎないことは分かっているが)を少しずつ咀嚼しながら、これからの自分の生活を創っていきたい。

にほんブログ村 ライフスタイルブログ セミリタイア生活へ
にほんブログ村
セミリタイア

次の記事

時間貧乏