あの人はどんな字を書くのだろう

 人の書く字を見るのが好きだ。

 子供の頃、学校では字を書くのが仕事のようなものだったからいろんな人達が当たり前に字を書いてそれを見る機会も多かったけど、大人になって、更にこれだけコンピュータやインターネットが普及すると、あまり人の書いた字を見ることがなくなってしまった。

 だからこそなのかもしれないが、たまに見ると「こんな字を書くのか」と思って、その人の違う一面を見られた気がして少し嬉しくなる。わくわくすると言ってもいいかもしれない。そう、割と人は予想外の筆跡を持っていたりする。人がその見た目の印象とは全く違う字を書いているのを見ると、自分が知っているその人だけではなく本当はもっと違う一面があるのだろうという点に思い至って、自分にとってのその人の奥行きが少し深くなって面白くなる。

 詳しくは分からないが、いわゆる団塊の世代くらいまでの人は、概ねみんな字が上手いように思う。小学校などで書道などのクラスが今よりも多かったのか、あるいは習い事の選択肢が今より少ない中で親が子供に身に付けさせたい教養として上位だったのかもしれない。昭和の時代だ。

 その後、平成、令和と時を経るにつれて技術や社会や人々の価値観が大きく変化し、字を書くということが昔ほど重要視されなくなってきているのは間違いない。それでも算盤よりはまだ生き残っている方かもしれない。私の通う教室でも子供達が今でもたくさん書道や書き方を習いに来ているが、ということはそれを習わせようと思った親御さんがたくさんいるということで、どうして今の時代に英語でもなくコンピュータでもなくサッカーや水泳でもなく書道を選んだのかな、と、これもやっぱり興味深く思う。

 敢えて言うと、字の上手さには性差がある。もちろんたくさんの例外があるのも知っているし、極論だとも分かっているが、それでも、男子より女子の方が字が上手いことが多い。(重ねて言うが、字の上手い男子もたくさんいることは分かっているし、知人にもいる。逆に悪筆な女子も知っている。傾向としてそう思われるということである。)

 理由を考えるに、小学校の頃、女子は友達とのコミュニケーションの一環として手紙を書いたりする機会が男子より多かったり、その時になるべく可愛くしようと思って装飾とともに文字そのものにも気を遣うことが多かったからかもしれない。外見と一緒で、文字についても、女性は男性よりも他人から見られているという意識が働く結果としてこうなったのなら、やっぱりこの違いは性差と呼んで差し支えないのかもしれない。(でも今はラインなどでの遣り取りが増えているだろうけど、どうなんだろう、昔と比べて何か変化があるのだろうか。)

 翻って男子の書き文字についてだが、いわゆる字が汚い男子はたくさんいる。社会人になっても汚いし、汚い中でもそれなりに個性があって、この字は誰の字と分かったりする。汚いからと言って下に見る訳では決してなく、汚いなりにその人の一面が見られた気がして興味深く思うのは同じである。

 しかし、子供の頃から今まで引き続き数えきれない字を書いてきたに違いないのに、その中でどうして上達しなかったのだろうと不思議には思う。書き方の癖と一口に言っても、運動における純粋に身体的な癖、例えば歩く時に爪先が外を向くとか走る時に腕が回るとか、そういうものではなく、字を書くという行為は、手を動かすという運動機能と同時に書いた文字を自分の目で見るという認知機能も働いていて、その二つは常に脳の中で情報を遣り取りしているはずである。だから自分が(ある程度、今よりは)きれいな字を書きたいと思えば一定程度は可能なはずだ。

 これについては、例えば字の上手さがその人にとってそれほど価値の高いことではなかった、字が上手くなりたいという動機が形成されなかった、そもそも字を書くこと=勉強自体が嫌いで避けていた、美しい字を見る機会が少なかった、などの理由が考えられる。あと、字が下手な理由の一つに書き順が間違っているというのもあって、全員が書道教室に通うわけではないから一般的には書き順は小学校の授業で習う訳だが、字の上手さに価値を置いていなければそれを無視して好きなように書くだろうし、勉強よりも友達との遊びに夢中だったりしたら、そもそも授業を聞いておらず頭に残らなかったのかもしれない。これも、字を見ることでその人の子供時代を想像して面白く思ったりする。

 今は手書きの手紙を書いて送るよりも、メールやその他の多くのツールで電子的に情報を遣り取りする方が簡単である。書くのも速ければ届くのも早く、コストもかからない。前に堀江孝文氏が「書き順なんてどうでもいい」と言っていたように思うが、彼にとっての文字は純粋に情報伝達の手段だろうし、その為に手書きすら不要という状況にあるだろうから、彼の価値観からそういう結論に達するのは当然かもしれない。

 ただ、もし字が上手くなりたいと思ったら書き順は重要で、「安」が「あ」になるためには、どうしたって「女」部分を正しい順番で書かなければつながらない。そう、書いていて面白いのは私にとっては圧倒的に平仮名で、お手本には絶妙なカーブやバランスで構成された平仮名が書かれていて、何としてもそれを習得したくなる。習い始めた当初は、自分がそれまで認識していたバランスとお手本が少し異なっているものも多く、「ここの間隔はこれくらいがいいのか」「この線はこんなに短くていいのか」と驚いた。そして平仮名のお手本の隣には必ずその由来となった漢字も書かれていて、その漢字からの変化を想像することで、お手本の文字の各要素の位置や長さやカーブが何故そうであるのかを納得することができた。

 でもいざ自分で書くと、自分の書いた字に納得できないことが多い。何回も書くが全部納得できない。でも練習枠には限りがあるので、全部埋まったところで終わる。自分はまだまだ下手だなあと思う。そしてそれを教室の日に先生に添削してもらう。ところが、そこで改めて自分の字を見ると、それほど悪くないような気がするから不思議である。先生も大人の私に対してはどちらと言えば褒め作戦で接してくれて、たまにちょっとしたアドバイスをくれる程度である。それで次の宿題をもらって帰るが、家で書いてみると、やっぱりどうしたって自分の納得できるようには書けない。これの繰り返しである。字にはイデアがあって、壁に投影されたそれは、確固たる理想としてそこに存在しているのだけど、何をしても自分の手には入らない。そんなギリシャ哲学の片鱗を頭の隅に思い出しながら、いつも字を書いている。

 ちなみに、かく言う私自身の字のレベルは中の上くらいではないかと思う。大人になってから字を習い始めて十年弱経つと思うが、時間をかけて丁寧に書けばある程度の文字は書けるようになっても、日常に戻って通常のスピードで字を書くと前の癖のままであまり変わっていない。つまり私の書く文字にはダブルスタンダードがある。これをひとつに統一して、美しい文字を書きながら相応に書き崩していって美しく速く書くことができれば良かったのだけど、どうも大人になってからだと難しいみたいである。そうなるためには、やっぱり子供の頃から字を習うしかないのかもしれない。

 文字そのものを習得する子供時代から美しい字というものに触れ、自分で書いた字のどこをどう直せばより美しく書けるかを教えてもらいながら、日常で字を書く無数の機会でそれを実践する。ついでにいえば、お手本では概ね縦書きなのを、日常生活で圧倒的に多い横書きに応用していかに速く美しい文字を書くかという練習も現代では必要である。これも、子供時代から学生時代、社会人へつながる過程で得られる文字を書く機会それ自体が練習の場となる。

 そうやって自分の書き文字を正しく形成すれば、あとは速度に関わらずストレスもなく、ただ自分の文字を書くだけでいい。その美しい字はその人のものである。私の友人知人にも何人かそういう人がいる。とても羨ましい。