レジで店員さんにお礼を言うかどうか

 本当は言った方がいい。と一般的には思われている。

 買い物に行き、レジで精算する時。宅配業者の人が荷物を届けてくれた時。

 そういう時に、私はお礼を言う習慣がない。

 例えば店員にとってはそれが仕事で、それをしてお金を稼いでいるのだから特にお礼を言う必要はない、という例の理屈を私も採用しているのかもしれないと思ったが、しかし例えば、美容室で髪を切ってもらった後にはお礼を言う。どこかのサービスセンターで何かの案内をしてもらった時もお礼を言う。一連のやり取りが全て終わった後、最後に「ありがとうございました」と言う。

 逆の立場だとどうなのか、自分がもし店員だとしたら例えそれが自分の仕事であってもお礼を言われると嬉しいものだろう、という考え方もあるが、私が実際に若い頃に接客業をしていて、レジで応対したお客さんにレジで応対したことについてお礼を言われた時に嬉しかったかというと、そういうことはなかったように思う。

 そういう時、私は「ああ、この人はこういう時にお礼を言おうと決めている人なのだな」「どうしてそう思うようになったのかな」「これがこの人の人間関係に対する考え方の片鱗を表すのだろうな」などと、相手の内面や動機について想像することが多かった。

 例えば自分がレジ要員だったとして、商品やサービスを相手に提供して代金を受け取るという一連の作業をして相手からお礼を言われた時に嬉しくなる人はどれくらいいるのだろう。もちろん、言われないよりは言われた方が相手に対する好感は生まれやすいと思うが、それはお礼を言われて嬉しいというのとは少し異なる。

 同じレジ対応だったとしても、一連の定型作業ではなく何かイレギュラーな対応、例えば相手が探している商品を店舗内で見つけてくるとか、質問に答えるとか、ボールペンを貸してほしいと言われて貸すとか、そういった結果としてお礼を言われたら少しは違うように思える。何故かというと、相手の役に立ったと感じられるからだ。

 更に言えば、それは店員といういわば脱人格化された存在から一歩抜け出して、一人の人間としての応対となりやすいということもあると思う。一人の人間として、何らかの形で相手の役に立てたと思える状況でお礼を言われたら、それは達成感を伴うものだし嬉しく感じるだろう。逆に私が依頼する客の立場だったとしても、こういう場合には当然明確にお礼を言う。

 考えるに、レジで最後にお礼を言う人は、感謝の気持ちというよりはただ挨拶としてお礼を言っているのかもしれない。私が接客業をしていた頃、レジでお礼を言われるとしたら、金銭の遣り取りが終わって商品を渡す時、あるいは相手が商品を手に取ってカウンターから離れて行きながら「ありがとうー」という感じで言われることが多かった。改めて考えると、それはお礼と言うよりは別れとか締めくくりの挨拶の一パターンと考える方がしっくりくるようにも思える。

 私が客の立場でレジで接客してもらった時にどうするかというと、お礼の言葉は言わないが、会釈はする。そして今まで割と長い間、言葉に出してお礼を言えないのが自分のコミュニケーションスキルの低さとか人間関係に対する価値観の現れとか単に躾のなってなさ(もういい大人なのだから躾と言わず礼儀と言うべきか)を表している気がして軽く自己嫌悪を覚えていたのだけど、上で考察したように、それは感謝の表明ではなく挨拶と考えるのであれば、会釈でもそれほど悪くはないのかもしれない。

 レジでの接客の場面については、する側にも受ける側にもなったことがあるし、今日あらためて考えてみたうえでの現時点での暫定的な結論としては上のとおりなのだけど、冒頭の例に戻って2番目、宅配業者の人が荷物を届けてくれた場合について考えれば、正直なところ、レジで接客を受ける場合と異なり、ある程度の感謝の気持ちを持つことが多い。それで、受け取りのサインをしてから引き換えに荷物を受け取った時、どうするかといえば、「すみませーん」と言っているように思う。

 この「すみません」についても些細な人生経験があって、私が高校生だった頃、好きな教科を担当していた先生から受けたちょっとした厚意に対して、「ありがとうございます」というべきところを「すみません」と言ってしまって後悔したことがある。その先生がある時授業で紹介した市販の新書が面白そうだったので、授業が終わった後に貸してもらえないかとお願いしたら、次の時にその先生は同じ本を古本屋で調達してきて、「返さなくていいから」と私にくれたことがあった。私はきちんとお礼を言うべきだったのに、何故かその頃「ありがとうございます」という言葉を使うのに抵抗があって、代替的表現として常々目をつけていた「すみません」という言葉を遣った。しかし口にしてみると一回では足りないように感じて、何回か繰り返した。先生は少し変な顔をした。

 今考えると、というより当時の若かりし自分もその直後に既に分かっていたのだけど、この対応は誤りだった。一番の模範解答はおそらく、笑顔で「ありがとうございます」と言うことだった。「すみません」という言葉は、ある一定の場合には「ありがとうございます」の代わりになることもあるけれど、やはり明確な感謝の気持ちを表す言葉とはなり得ないのだということを私はこの経験で学んだ。何故その頃「ありがとうございます」という言葉を遣わないように心掛けていたのかよく覚えていないし、深く考察する前に若気の至りとして片付けてしまってもいいのかもしれないが、当時の自分の心境を思い返すと、自己評価が低く、友人以外の他者とのコミュニケーションに強い不自由を感じており、相手の前に立つのが自分で申し訳ないといった気持ちがあり、おそらく他人の厚意も素直に受け取れるだけの心境になかった。こうして思い返してみると、あの当時に比べれば私自身も人間的に成長したなと感慨深く思えるほどである。

 以上の教訓を得た私が、何故宅配業者の人に対しては未だに「ありがとうございます」の代替として「すみません」と言い続けているのかというと、多分「ありがとうございます」が長い、という点も理由の一つに挙げられると思う。もしここが英語圏であれば、”Thanks.”という言葉は私でもすんなりと口をついて出てくるに違いない。日本語で「ありがとうございます」は、やはり少し長い。短くしようとすれば「ありがとう」になるが、これはこれで、相手と自分との立場によっては口にするのに抵抗がある。「ありがとうございます」は他人行儀だから心理的距離には合致しているけど、長いのと、あと挨拶の域を超えて本格的な感謝のニュアンスが強くなるから、レジや宅配業者の人には遣いにくい。「ありがとう」だと、私自身の心理的距離の取り方に照らすと少し近すぎてレジや宅配業者の人には遣いにくい。「どうもー」も、心理的距離が「ありがとう」に近い。結局、「すみません」が一番遣いやすい。

 思い返せば接客業をしていた時でも、お客さんから「ありがとうー」と言われることはあっても、「ありがとうございます」なんて言われることはなかった。更に言えば、この語尾を少し伸ばすのも、感謝のニュアンスより挨拶としてのニュアンスをより表すためによく使われている手段だと思われる。蛇足だけど、店員が面と向かって適切な声の大きさで「いらっしゃいませ」と言わず、扉の方に向かって「いらっしゃいませー」と大きな声で叫ぶのも、一対一のコミュニケーションから脱するための方法だと思う。何故かは分からないが、ある一定の場合には、一人の人間対人間としてのコミュニケーションが適切ではないと考えられるような、その関係から脱しなければ居心地の悪い思いをするような何かが日本の接客業にはある。声は必要以上に大きくないといけないし、語尾はやっぱり伸ばさないといけない。何故か。

 レジや宅配便受け取りはともかくとして、上で挙げたのも含め色々な人生経験を経て、今の私は「ありがとうございます」と「ごめんなさい」は意識的にきちんと言うようにしている。人間として大人として当たり前と言えば当たり前のことなのだが。そしてこれらの言葉を使用する時、それは絶対に例外なく、私という人格が相手という人格に対して一対一のコミュニケーションをとるという形として現れる。この、本当に基本的なというか原始的な、一人の人間同士の間の意思疎通というのが、歳を重ねるにつれてとても重要に思えてきている。まだまだ上手いとは言えないが、楽しいとは思えるようになってきたのは成長であると思っている。

雑記

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