自己否定の奥底に潜む甘美なアレ

 深刻な問題として捉えるのは大袈裟な気もするが、それでもここ最近嫌な気分が続いているのは事実である。
 嫌な気分になること自体は生きていればよくあることだから仕方ないけど、それがずっと続くということは、おそらく鬱かどうかのチェックリストの一項目にも挙がっていたと思うので、ある程度注意を要する状態なのだと思う。

 とはいえ自分は多分鬱でないと思っていて(というか実際そうで)、だから殊更に嫌な気分について気にすることはやはり大袈裟なのかもしれない。しかし単純に、嫌な気分でない状態で毎日を過ごせるのであれば是非ともそうなりたいと思っている。

 しかし、嫌な気分でいることは自然発生的にそうなるというより、ある意味で自己の選択としてそうしているという要素もあるのではないかと思ったことがある。

 数年前のその時もやっぱり嫌な気分が続いていて、自分が嫌いでこの先も私は何一つ上手くやれないしこんな私を子に持った親が可哀想で、というかその親でさえ最後には私に愛想を尽かすに決まっているんだから最後まで自分の味方だなんて心の支えにしていたら足元を掬われる気がして誰にも何も求められないと思って、歩きながら道端で泣いていたのだった。その時のことを覚えている。どの道のどの辺りだったのかも。

 そうやって泣きながら、こんなに苦しいのにどうしてやめないのだろうと思った。自己嫌悪にまみれながら頭の片隅で考えていた。それまでにも関連する本を読んだり、また自分自身の体験を通しても学んだことだが、つまり全く素直に自分を肯定できる時だってあるしそれは自分で選択可能なことなのに、どうして意図してそちらを選ばずに私はこうやってわざわざ苦しんでいるのだろうと。逃れられないというつもりもなくて、本当に逃れたければ逃れられるであろうことも分かっていた。その上で敢えて自分で選んでいるとしか思えなかった。

 周りに誰もいないのを幸いに道端で泣きながら歩いていた私は、そうやって頭の片隅で自分自身をなるべく観察して、比喩的に言えばその今自分に嗚咽させている自己嫌悪、自己否定という厚い雲の中をどんどん奥へと進んでいき、その結果苦しくて仕方がないその気持ちの向こうに、何か小さく光るものが見えたような気持ちになった。苦しい自己嫌悪の向こうに確かに何か甘美な、快感といえるものがあった。私はそれを求めて自らこの嫌な気分を選択しているのだと分かった。それは自己憐憫だった。自分に価値を認められなくて、だから他人のことも心の支えにできなくて、友達とも距離をとるよりなくて勝手にどんどん孤独になっていって、過去の行いは大体失敗だったしこの先も上手くいかないと思えて、そんな思考に囚われている、それは全て、自分を憐れむ為のものなのだと分かった。自分の全てを否定するしかないマイナス思考の果てにせめて自分で自分を憐れむこと、他に誰もいなくてただ自分で自分を憐れむことがその時の自分の最後の支えになっているようだった。

 そのことに気付いた時、少し冷静になって、泣くことをやめた。というかどうせ周りに人がいれば泣いていなかったのだろう、なんて冷めたことも考えつつ歩き進みながら、自己憐憫が最後の手段であるのなら、今後はもうそちらの道に進むのはやめようと思った。このことは自分にとっては小さくない発見だった。

 それからも、たまに自己肯定感を失って本当に嫌な気分になることはあるけれど、上の発見は常に頭の中にあった。だからといってさっさと嫌な気分を払拭できるわけではなく(できる方法があるのなら知りたい)、もちろん苦しいのだけど、そんな自分を外から眺めるもう一人の自分が「大したことないのに殊更に大袈裟ぶって」と冷静に観察するようになった。そうやって感情を相対化するようになった。楽になるわけではないけど、まだしもみっともなくないようにとブレーキをかけているのかもしれない。この対処方法がメンタルヘルスのために正しいのか間違っているのかも分からないけど、このメタ認知をなくすことも今となってはもう無理だから、大人になった証拠と思って適切に自分を制御していくしかない。

 そして最近は、全く実感の伴わない「死にたい」という呪文を心のなかで呟いてみて、死と今の自分との乖離を再認識して、自分の苦しみを矮小化させていたりするのである。