「死にたい」と呟くこと

 最近になって、死にたい、と時折心の中で呟くようになった。もちろん本気では全くない。たまに頭の中で呟くための呪文のようなものが欲しくなる時があって、その時々で自然発生的な口癖を繰り返し唱えたりするのだけど、これもその一つである。一時は、ああ幸せ、だったこともあった。幸せな時代。

 死にたい、と呟くと、「まあ死ぬほどでもないよな」とか、「死ぬくらいなら気にしなければいいよな」とか、「そうかいざというときには死ねばいいよな」とかそういう気持ちになって、そのフレーズの持つ絶望的なニュアンスに反して、不思議と少し気が軽くなる効果がこの口癖にはある。

 といってもあまりに長く口癖としておいておくものではないと思う。

 呟きながら、自分とは全く関係のないところで自ら命を絶った人のことが頭に浮かんできたりする。そういう人はたくさんいて、その人たちももしかしたら最初はこんな感じだったのかもしれないと思う。何か突然の重大な出来事に襲われて衝動的に亡くなった人もいれば、表面上は何もないように見えながらも頭の中で長く何かを抱え、ずっと試行錯誤した末に死を選んだ人もいると思うけど、後者の人達は、ふと死ということが頭に浮かんだ時期と、それを実行しようと思った時期の間にはそれなりの期間があったはずだ。どこかで、単に概念としての死が一つの現実的な選択肢としての死に変わった、あるいは徐々に変わっていったのだと思う。だから、今現在、私は死は生の対極にあって自分はその手の届く範囲にはいないと思っているが、でもそのうちに彼らと同じように、気付かない間に捕まってしまったりするのかもしれない、なんて陳腐な小説のように想像したりする。依存症のように、初めは自分自身は意思の力で制御可能だと疑いもしなかったのに、いつの間にか抜け出せなくなるのかもしれない。

 希死念慮とは文字どおり死にたくなることを指すみたいだけど、この「死にたい」と呟きたくなる気持ちはそれとは異なる。でも、もしかしたらそれが死の入口とはいかなくても、遥か遠くにある入口につながる一本道の始まり程度には関係があったりするのか。しないのか。単に少し奇妙な癖か。私がまたいつものように深刻ぶって取り立てて意味があるわけでもないことを殊更に大きく考えているだけか。

 でも、いざ死が現実的になれば必死でじたばたと抵抗する自分が想像できる。だから、これは安全な場所からご託を述べているだけで、所詮本物ではないと思っている。

 多分そうだと思うけど、もしこれが何かのフラグになるのなら止めておきたい。

 なんて考える程度には、まだ死を避けようとする気持ちがある。だから結局は大丈夫なのである。

 とりあえず、太宰治をもう一度読み返してみたい気持ちになっている。言わずと知れた歴史的作家だけど、正直に言うと今まであまりその良さが理解できたことがなかった。今だったら分かるのだろうか。というか、これだけ長年にわたって支持されているということはそれだけ多くの人が彼の作品の価値を理解したということだろうけど、その人達はどういう人生を歩んでそうなったのか。単に理解力の問題か、価値観や好みの問題か。次に読んだら私にもその魅力が分かるだろうか。