大人になった今でも~ラビニアについて

 ラビニアとは、『小公女』に登場する意地悪な同級生の名前である。多分ラビニアだったと思うが、うろ覚えだから違うかもしれない。まあ名前自体は特に重要ではない。

 私にとってラビニアがどういう存在かというと、「自分は自分なりに理由があって自分にとって正しいと思っていることをやっているのだけど、同時に他者にとっては私がラビニア(悪役)かもしれないな」という風に彼女のことを思い浮かべる。そういう象徴的な存在である。

 この考えに初めて至ったのは多分小学生か中学生の時で、だから児童文学に出てくるラビニアをイメージしたのだろう。ごく簡単に言えば、誰だって自分が正しいと思っているとか、人間が二人いれば利害は対立するとか、そういうことを理解した最初の一歩だった。

 昔この作品が『小公女セーラ』としてアニメになったことがあったのだけど、あれは日本風に耐え忍ぶ主人公像が描かれていて、あまり好きではなかった。原作とは少し違う。原作の主人公は最終的にきちんと仕返しをするようなしたたかさがある。ただし原作でもアニメでも、一貫して主人公は善、ラビニアは悪として描かれている(いや、アニメではご都合主義的に最後にラビニアと和解したのだったかもしれない)。いわゆる勧善懲悪である。大体において、児童向けの作品は勧善懲悪的要素があるものが多い。

 だから、そういうものを読んで育った幼い頃には当然自分は善の側の存在であるとしか思っていなかった訳で、自分がラビニアになり得るという気付きは、当時子供だった自分にとっては成長だった。それが遅いか早いかまでは分からないけど。

 そして、いい大人になった今でも、他人と対立した時や他人に対して怒りを感じた時、やっぱりラビニアのことを思い出す。相手にとっては自分こそが悪なのだろうと想像してみる。そうして謙虚さを取り戻そうと試みる。

読書

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