『自死という生き方』

 仕事上、研修やセミナーを受けることがよくある。

 無料のものや有料のもの、慣れた講師や慣れていない講師、質の高いものやそうでないものなど様々あるが、私が「これは良い研修だった」と思う研修像ははっきりしている。

 少し逆説的とはなるが、その研修を受けながら段々と「帰ったらあれも調べよう、あれも勉強してみよう」「今度これを仕事に取り入れてみよう」と頭の中で考えが拡がり、興奮してきてモチベーションが上がり、結果として講師の話などそっちのけになって全然聴いていなかった、となるようなものが、私にとっての良い研修である。

 冒頭から全く関係のない一文を書いたが、標記の『自死という生き方』(須原一秀著)も、私にとってはそういう本である。

 本を整理していて、本棚にこの本を見つけた。最初に読んだのは数年前だったが、その時の感想としては、「著者の書いた内容自体はあまり面白くないけど、事実が衝撃的だった」というものだった。65歳で自ら生を終えると決意した大学教授が、その自死の前一年間で死についてまとめた文章と、実際に自死を決行したという事実について第三者が補足的に書いた文章が収められている。

 最近、死というものについて以前よりはよく考えるようになったので、もう一度読んでみようと思って、数日前に再度手に取った。結果として、感想は以前と同じだった。

 著者はソクラテス、三島由紀夫、伊丹十三といった人物を挙げながら自死についての考察を行っている。読むにあたって、そこには古今東西の人々が死についてどう考えどういう行動をとったかという内容が哲学者によって広くかつ客観的にまとめられているのではないかと期待してしまうが、実際には、上に例示した人物がどう思いどう考えて死を選んだのかと言うことについての自身の単なる憶測に対して批判を加えているような、どちらかといえば軽い反感を覚えてしまうようなものだった。再読してもそれは変わらなかった。ただ、著者は歴史上の人物の自死について研究するにつれて自身の自死を決断したのではなく、決断した後に歴史上の人物についての考察を行っているので、最終的に持論に結びつけてしまうのは仕方ない面もあるのかもしれない。

 この本を読むと、その記述内容から何かを得るというより、著者が実際に決行の日にどんなことを考えていたのかとつい想像してしまう。これは私の勝手な想像だから事実とは異なるだろうけど、この件に限らず他者がどう考えるかなんて分からないし、自分の価値観や思考から脱することは難しい。大体、私自身はそもそも(現時点では)こういう形での自死を選ぶという考えを持っていないので、想像すること自体が難しいのだけど、必死に想像することは何となく自分なりに死を理解するうえで有益な気がする。

 私だったら多分、木に設置したロープのそばでナイフを首に当てながら、しばらくは動けないのではないかと思う。やめようかなと何度も思うに違いない。何故なら、昨日と今日とはそれほど違いがないし、今日と明日もそれほど違いがないのに今日である必要がないように思えるからだ。でも、既に多くの人に自分の決意を話してしまっているし、今更「やーめた」は格好がつかないな、というところで躊躇すると思う。(これは、本当に考え抜いて自死を選んだ人に対して非常に失礼な想像だと思う。私は自死を選ぶというそこについてそもそもの理解や共感が足りていない。)そして、いざ決行する際には、まあいいか、後先のことは考えないようにしようと思って自らの頸動脈に刃を使うのではないだろうか。というのは、私自身は普段の生活で、重大なメールの送信ボタンを押す時とか、とても高価な商品の注文ボタンを押す時とか、そういう時は熟考するよりもむしろ考えないようにすることが多いからだ。

 それから、多分著者は、自分自身が残した著作がどのように世間を騒がせるかを想像したのではないかと思う。私はこの本が発売された時のことをリアルタイムで知らないので、実際にどうだったのかは分からない。でもある意味で自分の生をかけるのだから、多少は話題になってほしかっただろうと思う。

 私が初めてこの本を読んだ時は、多分まだ若かった。つまり、死は今のところ自分には関係ないと思っていた。その証拠に、この本の中で紹介されている『人間らしい死にかた』(シャーウィン・B・ヌーランド著)という本について何の注意も払っていなかったようだからである。その時点で自分のアンテナに引っかかっていたのなら、少なくともAmazonのカートに仮で入れておいて、何度か見返すうちにタイトルくらいは頭に残っていそうなものだからだ。今回再読してこの本に興味が沸いたので、そのうち読んでみるかもしれないリストには入った(備忘録的にこのブログにも記載しておく)。

 ひとつ面白かったのは、著者も「死にたい」とつぶやくことによって元気になる、という記載があったことで、自分と同じだったので微笑ましく思った。この二人が同じなのなら、もっと多くの人が同じように感じるのかもしれない。

 いずれにせよ、この本はその内容からではなく著者の行動によって私に強い印象を残した。もしかしなくても同じような行動をした人は歴史上に多くいたのだろうけど、私はまだあまり知らない。同じような行動というのは単に自死を選ぶということを指すのではなく、その人にとっての人生が充実して幸せなものであるからこそ幸せなうちに死を選ぶということを意味する。ただ、キリスト教を信奉する人は除かれることになるし、他にもそういう宗教もあるのだろう、知識不足で分からないが。

 いずれにせよ、私自身、死についてまとまりなく考えることがあるという段階で、それはここに書ききれるものではない。また、今回の記事は読書感想文を書きたかったのではなく、自分が死について現段階で考えていることを書きたかったのだけど、そこまで掘り下げられずに単に本の内容に付随して感じただけのものに終わってしまった。

 私にとって死とは今のところ、例えば試験があるから勉強するように、死があるから今の生活をなるべく充実させようという「期限」としての要素が大きいように思う。実際には「まだ死は当分先だろう、もちろん事故で突然死ぬ可能性もなくはないけど」という程度のものだ。でも20代の頃よりは捉え方が少し変わっているから、この先も経年とともに少しずつ変わっていくのだろう。