猫に気を遣われた良い思い出

 子供の頃、実家の庭を縄張りにしている猫がいた。一匹なのか複数なのか分からないけど、何回か餌付けしたことがある。
 猫も犬も好きだけど、子供の頃から飼ってはいけないと言われていたので、たまに庭で見かける猫がかわいかった。野良だったのか、もしかしたら散歩している飼い猫だったのかもしれない。昔は飼い猫を外に出すのも普通だったから。
 最初は当然警戒されたけど、少し餌をやったら割とすぐに私のことを認識してくれて、食べ物を持っていれば近寄ってくるようになった。台所にあった出汁用の煮干しとかかつお節をやることが多かった。私が立っている間は距離を取ったまま近寄ってこず、しゃがむとぱっと近寄ってくるのが常だった。
 ある時、台所にめぼしいものがなく、ふと思い付いて牛乳をやってみた。人間の飲む牛乳は猫には良くないらしいのだけど当時は知らなかったし、猫は普通に牛乳を飲むものと思っていた。
 それで平たい器に牛乳を入れて猫の前に差し出したら、予想に反して猫は飲まなかった。せっかく何か食べ物をもらえると思ってたのにこれは違うんだよな、みたいな顔をしていた(主観)。でも他に何もなかったし、飲んでほしかったので、「ほら」と更に器を向こうに押してみた。「ほら、ほら」と。
 そしたらその猫は、「仕方ないな」というように、少しだけ飲んだ。申し訳程度に、ほんの一口か二口だけ。そして「もういらない」と後ずさった。
 本当は欲しくないのに私に気を遣ってそうしたのが明らかだった。そしてその気遣いはいかにも人間的だった(という言い方は人間の傲慢なのかもしれないとすら思えるほどに)。私は感銘を受けた。

  動物を飼ったことがないから分からないけど、実際には犬にも猫にも、相当程度、そういう感情というか社会性があるのだろう。飼っている人の体験談を見聞きする限り、一方的にかわいがられるだけではなく、ある時には飼い主を外敵から守ろうとしたり、飼い主を慰めてくれたり、人間の乳幼児を認識してその加減を知らない振舞いをある程度は我慢したりもするらしい。そういうものを目にすればするほど、自分も飼いたいと思うようになっていった。

 またある時、気ままにうちの庭を散歩していたらしい猫が、雨上がりの水たまりの上澄みをぺろぺろっと飲んでいた。
 それを見た私は、どうせならもっときれいな水を飲んだらいいのに、と思って、適当な空き缶に水を入れて、猫の前で適当な平たい器に空き缶から水を注いだ。
 しかし猫は水ではなく空き缶を見ていた。
 その『口から水を吐き出した得体のしれない何か』にものすごく驚いたようで、瞬間的に後ろに飛びすさった後、水には少しも口をつけないで、その何の変哲もないただの空き缶をずっと警戒していた。
 その時には逆に、これは猫の理解の範疇の外にあるのか、と意外に思った。空き缶は割と単純な構造のように思えるけど、器ではなく生き物に見えていたのだろうか。猫が空き缶をどう認識したのかよく分からなくて興味深かった。

 あれから何年も経ち、今の私は、もしかしたら人生で初めて猫を飼うことができるかもしれない、という状況にある。子猫をもらい受ける話が具体的になってきつつある。
 実現したら、猫と日常を共にしながら、その社会性とか外界の捉え方を思う存分観察してみたい。

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