ブラック企業を利用したことがある

 かつてブラック企業と思われる会社で働いていた、という単なる思い出話と、ブラック企業というものに対する考察を書いてみる。

 どうブラックだったかというと、簡単な話で、所定労働時間の実態が週40時間を超えていた。

 雇用契約書上は、週の労働日数は月から土までの6日。始業が9時で終業が18時、ただし一日の休憩時間が2時間半くらいあるような内容で、契約上はきちんと週40時間以内の労働時間に収まっていた。
 でも実務上は普通に休憩1時間で動いて、つまり土曜日の出勤分だけ労働基準法の規定を超えている、という感じだった。タイムカードがなくて毎日名簿に印鑑を押して出勤簿としていたことから考えても、その会社は意図してそうしていたと思う。要するにコンプライアンス精神に欠けるブラック企業だ。

 でも私はその会社で働くことができて良かったと今でも思っている。私にとっては次の点で明らかにプラスだった。

 第一に、実務経験を得るという目的を達成することができた。まだ働き始めてすぐの頃で、やりたい仕事はあったが実務経験不足でその仕事に就くには難しい状況だった。だからブラックだろうが何だろうが実務経験を積めればそれで良かった。
 毎日長時間労働が続くと心身が疲弊して悪影響があるのは周知のとおりだけど、幸い、土曜出勤はあっても日々の労働時間は概ね8時間という感じだったから、それほどしんどいとも思わなかった。まだ若かったというのもあると思うが。

 第二に、いくつかの出会いがあった。全体的に若い会社で、上に書いたように法の抜け道を探すような倫理観の低さは随所に見られて離職率も高かったが、その分、身の軽い若者が多く集まってもいた。ずっとここで働こうなんて思ってないけどまあメリットはあるうちはいてもいい、みたいな感じで、要するに独立精神、起業精神の強い人達がいた。そういう人たちと話すのは楽しかった。実際、そこで得たいくつかの出会いは、私が後に独立開業して自営業になるに至るまでの過程に大きな影響を及ぼしている。

 結局のところ、その会社も真正のブラックという訳でもなく軽度のブラック企業だったということになるのかもしれない。採用する端からどんどんと辞めていくが、企業規模はそこそこ大きく人は必要なので、会社も単に使い捨てにする訳でもなく色々な方策を考えているところもあったし、自分自身がそれほど辛くなかったので、本当にブラック企業と言える会社だったのかどうか、改めて考えるとよく分からない。

 ただ、その会社には結局一年くらいしかいなかった。就職してそろそろ一年経とうという頃に、やりたい仕事内容とは違う別の部署への異動を命じられたからだ。その瞬間にその会社にいる意味はなくなった。
 でも、希望職種の実務経験を得たとはいえまだやっと一年というところで、すぐに辞めようと思えるだけの自信は当然なかった。

 ここでひとつ幸運に恵まれたのが、その時たまたま前の会社の同僚と会う約束をしていたので、会った時に愚痴交じりに自分の現状を話したところ、その同僚の知り合いの会社で私の希望職種のスタッフを探していたらしく、すぐに連絡してくれて、一度面接を、ということになった。

 次の日、会社に出勤した時に、その時の部署の上長に「もしかしたら辞めるかもしれない」と話した。異動してまだ数日のことだ。上長は理解してくれて、面接のための半休もくれた。
 「やりたいことができるのならそっちに行った方がいい、この会社は無理して長くいるような会社ではないから」と言われた。もちろんその上長だって、その会社が必ずしも良い会社ではないことを分かっていたと思う。でもそう言う上長自身はというと、自分の生活における様々な状況を勘案してとりあえず働き続けることを選んでいるようなニュアンスが漂ってきた。「自分は色々あってここにいることを選んだけど、君はまだ若いんだから早めに次のことをやった方がいい」という感じのことを言われた。

 面接は上手くいき、次の会社に採用してもらえることになったので、人事に退職手続きに行った。「退職します」と言うと、「えっ、誰がですか?」と言われた。入社して一年程度といえど、離職率の高いその会社では私は「こいつは頑張るだろう」と思われていたのかもしれないな、とその時に思った。やりたい仕事をできている限りは、その会社で働くのは楽しかったから、それが表に出ていたのかもしれない。

 そういう訳で、その会社で働いていたことはむしろ良い思い出として残っている。やりたい仕事と悪くない人間関係(完全に良好だったわけではないが)、これがあったのは恵まれていた。

 逆に、決してブラック企業ではない会社だったのに、明らかに自分に合わない仕事をしていたせいで病んだこともある。その時にものすごく疲弊し、結果として後に長い間悩むような抑鬱状態へと足を踏み入れた。結局、その会社がどういう会社であるか以上に、自分と合うかどうかが大事なのだろうと思う。

 

 と、ここまで書いてきてふと、真正のブラック企業ってどんな感じなんだろう、と思ったので、考えてみた。

 待遇が悪すぎてどんどん人が辞めれば会社の運営に支障が出るから、典型的なブラック企業というのは実は想像の産物でしかないようにも思う。もちろん、中には本当に悪質な会社もあると思うが、そういう会社が長続きするところがうまく想像できない。詐欺のように、短期的に会社を立ててすぐに消えるような作戦でもなければ成り立たない気がする。
 そうではなく、例えば直属の上司が嫌な人間で辛いとか、人間関係や職場の雰囲気が悪くて辛いとか、仕事が合わなくて辛いとか、慢性的人手不足で会社に明確な悪意がある訳ではなくてもどうしても毎日終電になってしまって辛いとか、何年も給料が上がらなくて辛いとか、あるいはその全てだとか、そういう状況を労働者側の主観でとらえて表現する時、『ブラック企業』という言葉が遣われるのかもしれない。会社に明らかな違法行為があるのならともかく、人間関係とか遣り甲斐とか適性とか人手不足とか、そういうのが要因であれば解決は難しいだろうと思う。
 ではどうするかと言えば、辞めるか続けるか主体的に選ぶ。選んだ以上は受け入れる。そういう割り切りが必要なんだと思う。「辞めたくても辞められないから悩んでいるんだろ」というのは充分に現実的な反論だけど、それは辞めないことを自ら選んでいるのと同義になる。
 でもそれで長く鬱病を患ったり過労自殺に繋がったりする事態はもちろん避けるべきだから、そこは身を切るような決断も必要になる。例えば子供の学費とかそういう本来なら切ることのできないものであっても、自分の健康や命が危ぶまれる状況なら切ることが必要で、それはとても過酷な状況だしブラック企業的な状況の多くは本人の責任ではないから理不尽なようにも思えるけど、それでもやっぱり何らかの主体的な決断をするしかない。

 ここで他人とか世間と比べるとしんどくなる。例えば子供には大学(高校)くらい行かせてやりたい、と思うのは当然だけど、それはブラック企業で心身の健康を損ないながら働き続けてまで叶えるものなのか、という検討が必要になってくる。
 そしてここで「みんな当然のように手に入れているのに何で自分だけ」という方向に考えると解決から遠ざかってしまうので、そこは敢えて『現状』と『取り得る手段で現状を変えた場合のその後の人生』のみを比較して、どちらが幸せか、で考えるしかない。その前に何が自分(達)にとっての幸せなのか、も把握しておかないといけない。

 法律や福祉は最低限のラインを支えるものであって、『人並み』を保障してくれるものではない。だから人並みという呪縛に囚われるととてもしんどくなる。人並みの給与、人並みの生活、人並みの教育、そういう風に考えるとしんどいと思えるような困難な状況にある時には考えない方がいいと思う。人並みでなくてもいくらでも幸せになれる、幸せとは主観的なものだ、そう思って人生の選択をしていく方がいい。というよりそうするしかない。「人並みの生活も送れないなんて国は何をしてるんだ」という方向に行っても、やっぱり残念ながら保障されているのは『最低限』であって『人並み』ではない。でも、別に人並みでなくても充分に幸福は達成できるとも思う。その辺りの多様性がこの国に欠けていると言えば欠けているのかもしれない。

 ただ、これは「強者の論理」なのだろうか、とも考える。

 個人の頑張りとは関係のないところで、どうしようもなく抜け出せない困難な状況があるような話を聞く。頑張ればどうにかなると考えることが、そもそも弱者の立場を理解していないからだ、という言葉を聞く。格差が固定してきていると聞く。

 そう言われればそうなのだろうか、と思って自分の考え方を振り返るけれど、自分ではどの辺りに理解の欠如があるのかがよく分からない。でも分からないから存在しないと考えるのではなく、視野を拡げていく努力をすべきなのだろうと思う。

 私自身は親に大学まで出してもらったから恵まれている方に入るのだろう。じゃあもし片親しかいなくて自分もアルバイトしながら何とか高校までは卒業したような状況だったら、いやむしろ卒業できずに結局中退してしまったら、と考えると、もし自分自身の構成要素が学歴以外は今と同じであればそれなりに何とかする(しようと頑張る)と思う。でも学歴とそれに付随する人生経験が異なる時点で今の自分とは価値観も能力も異なっているのだとすれば、もうそれは予想の範疇外になる。
 でも逆に価値観が異なっていれば、今の自分と同じものを得られなくても、別の方向でいくらでも自分自身の幸せを見つけて実現できるのではないか、とも思う。

 このことについては、ここで更に書き続けると長くなりすぎるので、また別の機会に考えてみたい。